【育休日記43日目】初めて公共の場でギャン泣き、そのとき感じた無力感

今日は生後1ヶ月半の赤ちゃんを連れて、道の駅へ食料品の買い物へ。この前のお出掛けがわりとイージーだったので、甘く見てました(笑)

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到着早々、赤ちゃんはギャン泣き。店内ではさすがに周りに迷惑になってしまうので、赤ちゃんを抱いて外へ。妻に買い物を託し、外でひたすらあやすことになりました。

何とも言えない無力感

この道の駅は、人の往来も多く、特に年配の方が出入りしている場所です。公共の場でギャン泣きを初めて経験したわけですが、なんとも言えない無力感を感じることになりました。

「赤ちゃんが泣くのは当たり前」
「周囲も微笑ましいねーと見守ってくれるはず」

そんな風に周りの目なんて気にしないと思っていたのですが、意外とそうもいかないなという現実を知ります。

子供が泣いていると色んな視線が集まる

子供が泣いていると目立ちますよね。

泣き声って無意識にでも「大丈夫かなー」「なんかあったんかなー」という心配の気持ちを抱かせるんだと思います。

外でギャン泣き状態の赤ちゃんを抱っこしていると、それこそ色んな意味を含んだ視線が集まってきました。

でもその視線って気にしなければたいした視線ではなくて、それこそ大体は「大丈夫かなー」「なんかあったんかなー」と気にかけてくれている視線がほとんど。

ただこの視線、ギャン泣きが止まらないと無力感に苛まれる状態となり、周りに見られているのではと自意識過剰になり、「泣き止ませられない自分、情けない、恥ずかしい、隠れたい」というようないらん負の感情が湧いてきました。

「うるさいと思われているのではないか」
「早く泣き止ませろと思われているのではないか」
「パパじゃだめねーやっぱりママじゃないと、と思われているのではないか」
「小さな子を外に出してかわいそうと思われているのではないか」

子供が泣くのは当たり前、泣くのが仕事、周りに迷惑掛けてなんぼ。そんなマインドセットをしているにも関わらず、公共の場でギャン泣きの子を抱いているとかなしいかなそんな気持ちが湧いてきたのです。

今まで自分はどんな視線を送っていたか

わたしも今まで公共の場で、ギャン泣きする子供と両親に視線を送ったことがあります。

それこその視線にそんな意味はなくて、「大丈夫かなー」「なんかあったんかなー」「大変そうだなー」と泣き声がある方に視線を移す程度。大きな音があった方に視線を移すのは自然なことですよね。

ただそんな悪意のない視線が、無力感に苛まれている状態の当事者には、違った意味で受け取られている可能性があるということを実体験を持って知りました。

今後そんな状態に陥ったら

じゃあそんなギャン泣き状態に陥っているとき、周囲を通る人たちにどうして欲しかったのか。みなさんチラッと視線はくれるんです。ただその視線を、当事者は悪い意味合いで解釈してしまうほど、無力感に苛まれています。

もちろんそんな状態にならんようにしなさいよと一喝されてしまう案件なのかもしれませんが、それはそれで不寛容な世の中だなと。

じゃあ実体験としてどうだったらいいと思ったか。

「大丈夫だよ」「よくあるよね」「頑張って」みたいな意味合いを、ニコっという笑みや何らかの方法で表現してくれる人が、往来の中で一人でもいれくれたらだいぶ違うんだろうなと想像します。

これから幾度となくそんな状況に陥ると思うので、果たして何が正解なのか、当事者としても見守る立場としても興味深いなと思う出来事でした。

いずれにせよ子供は大いに泣いて、大人は微笑みながら見守れたら理想的ですよね。